幕末から明治中期にかけて生きた名実業家・五代友厚。
商都大阪で、近代の大阪の経済の発展に寄与しており、渋沢栄一や岩崎弥太郎と並び日本の日本の近代化に大きく貢献した人物であります。
今回は、渋沢栄一らと並んで語られることの多い五代友厚がどんな人で何をした人のか、五代友厚の功績や業績を簡単にまとめ紹介していきます!
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目次
五代友厚はどんな人
原市之進像:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8F%8B%E5%8E%9A
別名:才助(通称)・徳助(幼名)
出生地:薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現:鹿児島市長田町)
薩摩藩士⇒実業家
父:五代秀尭
妻:五代豊子
五代友厚は幕末期に日本の武士(薩摩藩士)で、明治維新から明治中期にかけては実業家として活躍した人物です。
五代友厚は質実剛健を尊ぶ薩摩の気風のなかで育ち、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両方を学びます。
安政元年(1854年)、ペリーが浦賀に来航した際には、五代友厚は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮い立ったとされており、五代友厚は名を挙げること、日本から海外へとの思いがあったと思われます。
一時はイギリス艦の捕虜となりますが、横浜でイギリス艦から小舟で脱出し、捕虜になることに悪評がある薩摩へは戻らず、一時潜伏生活をおくっています。
1965年(慶応元年)には、寺島宗則や森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団の一員として英国に出発し、さらに欧州各地を歴訪する。
このとき、ベルギーのブリュッセルで薩摩藩の財政に貢献する目的でモンブラン伯爵とと貿易商社設立契約に調印をするが、諸要因が重なり失敗に終わります。
しかし、五代友厚はこの経験でしっかり学び、この経験が五代友厚の経営手腕に大きく関与することになります。
1966年(慶応2年)に帰国後は、御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係や長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家としての手腕を発揮します。
明治元年(1868年)に明治新政府が設立され、参与職外国事務掛となります。
この後(明治維新後)の五代友厚については次の「何をした人や業績・功績簡単まとめ」で紹介していきます。
五代友厚は何をした人
五代友厚をはじめ、商都大阪の発展に関わった企業家たちを紹介している「大阪企業家ミュージアム」(大阪市中央区)2021年2月撮影。
「東の渋沢、西の五代」と言われる渋沢栄一と五代友厚。
500社もの会社を設立し、東京商法会議所(現・東京商工会議所)の初代会頭も務めた渋沢と、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)初代会頭の五代。
二人とも同時期にフランスやイギリスに渡って現地を視察し、日本の産業の近代化に注力しました。
1882年、渋沢栄一は日本の名だたる企業の設立に関わり、大阪で最初の紡績会社(大阪紡績会社)の設立に関わります。
その頃大阪では、五代友厚とともに大阪商法会議所を立ち上げた繊維商人たちが、紡績会社の設立を計画しており、渋沢栄一と手を組んで紡績会社を立ち上げました。
大阪紡績会社は日本初の蒸気力紡績会社でした。
渋沢は自らの知見と外国で技術を学んだ技師らの力を活かしながら、資本や設備投資、人材育成に力を入れます。
渋沢が設立した大阪紡績会社の発展が、五代友厚のいる大阪の商人達に刺激を与え、日本の紡績業の発展につながり、日本の近代産業を大きくリードしていきました。
五代友厚の功績や業績の簡単まとめ
三浦春馬さんが五代友厚役で主演を務めた映画『天外者(てんがらもん)』のポスターと五代友厚の写真。
「大阪企業家ミュージアム」(大阪市中央区)にて、2021年2月撮影。
・長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設(慶応2年(1866年))
・西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍(慶応4年(1868年))・初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける
・大阪通商会社、為替会社の設立に尽力する(明治2年(1869年))
・英和辞書を刊行(明治3年(1870年))
・大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致する(明治4年(1871年))
・弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立する。(明治6年(1873年))
・半田銀山(福島県)の経営を開始する。(明治7年(1874年))
・五代の斡旋により、大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催(明治8年(1875年))
・朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立(明治9年(1876年))
・堂島米商会所を設立(明治9年(1876年))
・大阪株式取引所(現・大阪取引所)を設立(明治11年(1878年))
・大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任(明治11年(1878年))
・大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設(明治12年(1879年))
・大阪青銅会社(住友金属工業)を設立(明治14年(1881年))
・関西貿易社を設立明治14年(1881年)
・共同運輸会社を設立(明治15年(1882年))
・神戸桟橋会社の設立許可を得る(明治15年(1882年)⇒1884年11月開業)
・大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)が開業(明治17年(1884年))
・東京において日本郵船会社を斡旋(明治18年(1885年))
薩摩で生まれた五代友厚は、渋沢と同時期(1865年)、29歳で留学生としてイギリスに渡り、工業都市マンチェスターなどを訪れます。
五代の知見が活かされ、大阪は日本一の工業都市として発展。
彼の死後、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれます。
明治に入り、五代は新政府の参与職外国事務掛として大阪の外交に関わります。
貨幣制度の混乱を抑えるため、藩札に代わり国際的に通用する貨幣を発行する造幣寮(現・造幣局)を大阪に創設。
さらに、大阪の財界人とともに大阪活版所や、海外貿易を国家主導にするための大阪通商会社・大阪為替会社を設立します。
そして、政府の条例に基づき130名もの創立株主と大阪株式取引所を開くなど、低迷していた大阪経済を建て直します。
1875年、大久保利通や木戸孝允らが新政府の方針を協議した大阪会議が開かれ、五代も尽力します。
その功績が認められ、大阪堂島米商会所や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立。
順調に事業を展開するも、1881年に北海道の開拓使官有物払い下げ事件が起こります。
当時の開拓使官で同郷だった黒田清隆から、安価で官業の払い下げを受けようとし、官僚の癒着が問いただされ、政商と呼ばれるように。
しかし、元々五代は私利がないという人々の認識もあり、大阪での名声は揺るがず、翌年に大阪商法会議所会頭に賛成多数で再選。
その後も大阪の発展に注力し、今日の大阪の街の礎を築きました。
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まとめ
幕末から明治にかけて、日本の近代化に大きく寄与した五代友厚。東京と大阪それぞれの大都市で、「政商」と言われながら日本経済の発展に尽力し、彼らの実績がいかに今日の私たちと密接に関わっているのかが分かります。
個よりも公の利益を優先して激動の時代を変えていった彼らの姿勢にこそ、昨今の低迷する日本経済を打破するヒントがあるのかもしれません。
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