長州藩の武士であり、政治家・実業家としても活躍した「井上馨」。
伊藤博文・山縣有朋と並び「長州三尊」と称された人物です。
そんな井上馨は一体どんな人物だったのでしょうか。
この記事では、彼の人物像に迫るとともに鹿鳴館について、趣味の料理の逸話についてもわかりやすくご紹介します。
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目次
井上馨はどんな人か簡単に紹介!
出典:Wikipedia
井上馨(1836年~1915年 享年79歳)
・幕末の武士(長州藩士)であり政治家、実業家
・安芸国人毛利氏家臣・井上氏の出身
・長州五傑の一人として「ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン」で学ぶ
馨は長州藩士の父・井上光亨の次男として誕生します。
兄とともに藩校「明倫館」で学んだのち、藩主である毛利敬親に従い江戸へ出向いた先で伊藤博文と出会います。
この出会いがきっかけで蘭学を学び、海防に興味を持つようになりました。
江戸に遊学することとなった馨は攘夷の思想を強め、高杉晋作らとイギリス公使館の焼き討ちに参加。
このころはかなり過激な行動を取っていたようです。
1863年には伊藤博文・山尾庸三・遠藤謹助・井上勝とともに「長州五傑」の一人としてイギリスに密航。
長州五傑のメンバー
出典:Wikipedia
西洋の文明を目の当たりにした馨は攘夷は不可能だと悟り、開国派に転じるのです。
急遽帰国したのちは伊藤博文とともに和平交渉に奔走しました。
征長軍が迫ると武備恭順を主張したため、俗論党の刺客に襲われて、ひん死の重症を負いました。
明治維新後の第一次伊藤博文内閣では、外務大臣を務めることとなった馨。
幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正に尽力しました。
このころから伊藤博文とは2人で1つ、まさに二人三脚の状態で政務にあたっていたそうです。
その後は、農商務大臣・大蔵大臣・内務大臣を歴任するなど政治家として活躍する反面、三井などの財閥顧問も務めました。
この世を去るまで、政界・実業界に多大な影響を及ぼした人物です。
井上馨の鹿鳴館をわかりやすく
出典:Wikipedia
鹿鳴館とは
鹿鳴館(ろくめいかん)は1883年に井上馨によって建てられた洋館で、明治初期の国際的社交場として使用されました。
・収容人数:2,000人
・館内:食堂・談話室・書籍室・舞踏室
・館内設備:バー、ビリヤード
何のために建てられたのか?
当時、馨は幕末に締結した不平等条約を改正しようと奔走していました。
西欧諸国と交渉を上手く進めていくにあたり、欧風の制度や生活様式、服装などを積極的に取り入れるべきだと考えたのです。
そこで、外国人との交流の場を設けようと建設されたのが「鹿鳴館」だったのです。
鹿鳴館の出現によって、日本の上流階級の人々に欧風文化が広がりました。
この時代を「鹿鳴館時代」と呼びます。
鹿鳴館ではなにが行われていた?
鹿鳴館では、毎日のようにダンスパーティーや音楽会が開かれており、国内外の外交官や上流階級の人々が招待されていました。
また、婦人慈善会(バザー)や天皇節の祝賀行事をはじめとする国内行事も頻繁に行われていたそうです。
欧米諸国に、発展した文明国であることをアピールするねらいがありましたが、当時の日本人はダンスパーティのマナーなど知るすべもありません。
当然国外の外交官たちは、表面上はダンスパーティーを楽しみながら、日記ではこうした日本人の姿を嘲笑していました。
それに加え、世論はこの政策に対し「西洋のさるまねをしているだけだ」と批判する声が広まりました。
欧化政策が失敗に終わった馨は外務大臣を辞職し、やがて鹿鳴館も閉鎖されました。
井上馨の趣味の料理についても
馨はこの時代には珍しく、料理をすることが大好きでよく人にもふるまっていました。
明治時代は「男子厨房に入らず」が一般的だった中、長崎に赴任した際、京都の料理人の名手を伴ったことがきっかけで料理に目覚めたそうです。
こだわりと個性が強い料理
料理には食材選びから強いこだわりを持っていたようで、欲しいと思ったら遠くのものでも手に入れて料理につかっていたそう。
その様子は馨の伝記にはこう記されています。
「遠近を問はず何処までも往つて捜させた。そして必ず手に入れねば承知しなかった。
また手に入れた上は如何にして調理すれば最も口に適するかといふことを研究し、それは一方ならぬ苦心をしたものである」
(世外井上公伝)
また、料理に工夫を凝らすことが好きで、とても個性的な料理を創作していました。
例えば、鮴(ごり)という魚入りの味噌汁、蘭の花やすっぽんの卵を入れた吸い物、らっきょ酢と甘酒のスープ等々・・・
こんな個性のすごい料理を食べた周囲の人たちは困惑していたようです。
特に得意料理だった、らっきょ酢と甘酒のスープはあまりの不味さに食べるふりをして蓋で隠した者もいたと言われています。
大正天皇にも料理をふるまったそうですが、天皇は馨の料理を「ゲテ趣味」と恐れていました。
肝心の本人はそんなゲテ趣味の料理をおいしいと思っていたようで、いろいろな人にふるまいたがったので周囲も困っていたそうです。
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まとめ
幕末は武士として、維新後は政治家・実業家として活躍した井上馨。
不平等条約改正のために行った欧化政策は失敗に終わりましたが、日本の近代化と資本主義の発展に大きく尽力した人物だと言えるでしょう。
政界・財界に多大な影響を及ぼした優秀な人物である反面、癖の強い料理を振る舞う一面に人間味と親近感を感じてしまいますね。
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