幕末に水戸藩9代藩主・徳川斉昭(烈公)に仕えた武田耕雲斎。
徳川斉昭が生前だったときは水戸藩の中心にいましたが、斉昭亡き後の耕雲斎は悲しいものとなっています。
そんな耕雲斎は人生の最後になにを思っていたのでしょうか。
耕雲斎がどんな人で何をした人なのかや辞世の句や最後の言葉の意味から耕雲斎の最後の思いを紹介したいと思います。
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目次
武田耕雲斎はどんな人で何をした人
武田耕雲斎像:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E8%80%95%E9%9B%B2%E6%96%8E
名前:武田耕雲斎名:正生
通称:彦九郎
号:如雲
官位:伊賀守
生年:1803年
没年:1865年3月1日(享年63年)
所属:水戸藩執政⇒天狗党首領
武田耕雲斎は名前を変えた
昔は名前が変わることがあるのは良くあることですが、武田耕雲斎が名前の変えたのは他の方たちとはちょと違う理由があります。
昔は養子などにでるとその養子先の姓を名乗るのが一般的です。
しかし、武田耕雲斎はそれらとは異なります。
武田耕雲斎はもともとは清和源氏のひとつである河内源氏の傍系である跡部氏の一族だったのです。
武田耕雲斎は水戸藩士であった跡部正続の長男として生まれ、その後、跡部家宗家の跡部正房の養子になり、15歳にして家督を相続します。
相続と同時に、徳川斉昭の許しを得て跡部姓から武田姓へと名前を変えます。
とう言うのも、耕雲斎は先祖に武田家の家臣であった跡部勝資が『甲陽軍鑑』において「奸臣(かんしん=悪巧みをする家臣)」とされており、この家名を嫌っていたため、武田家と姻戚関係の繋がりがあったためか武田信玄の末裔として武田を名乗るようになります。
水戸三田の一人
武田耕雲斎は戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸三田の一人として認識されるようになります。
戸田中太夫や藤田東湖と並び、徳川斉昭を支える重臣となります。
これら3人は水戸藩の中でも優秀な家臣でありながら、斉昭が唱える「尊皇攘夷」にも賛同する攘夷派の家臣でした。
しかし、一時は徳川斉昭は行き過ぎた藩政改革をしたことを咎められ、隠居謹慎処分を幕府から命じらるとこれに反対しため武田耕雲斎も連座の処分を受け、謹慎となります。
その後、徳川斉昭の復帰に伴い、武田耕雲斎も水戸藩の執政に復帰します。
しかし、徳川斉昭が死去すると攘夷派であった武田耕雲斎は執政から遠ざけられてしまうのでした。
天狗党首領に
徳川斉昭後、水戸藩は天狗党(攘夷派)と諸生党(保守派)とで分裂します。
耕雲斎は混乱した水戸藩の自体を収束させようと各派閥との調整に当たりますが失敗します。
さらには、1864年には藤田東湖の四男の藤田小四郎が天狗党を引き連れ筑波山で挙兵します。
ことのときは武田耕雲斎は藤田小四郎に時期尚早で早まった行動だと諌めようとしますが聞き入られてもらえませんでした。
天狗党は筑波山で挙兵した際には、全国各地から志士が集まってきますが、筑波山に集まるまでに金品の略奪や放火などしていたため、幕府から乱賊扱いされてしまいます。
そんななか、藤田小四郎から再三、天狗党の首領になってほしいと頼まれていた武田耕雲斎は仕方なく天狗党の首領になることを引き受けます。
この時、武田耕雲斎は、天狗党の首領になることで『自身の死を覚悟した』上で引き受けたようです。
武田耕雲斎は水戸藩から発生した天狗党(尊皇攘夷派)が金品の略奪や放火などをして関係のない人たちまでを苦しめ、統制が取れていないことに憂いていたのでしょう。
武田耕雲斎が天狗党の首領になってから統制がとれ、天狗党は略奪や放火をすることはなくなったようです。
このように武田耕雲斎は水戸斉昭の教えが間違った方向にいっていた天狗党を正すために仕方なく天狗党の首領になったのでしょう。
武田耕雲斎が天狗党の首領になってからは幕府や水戸藩からの討伐軍にも勝利しします。
そして、京にいる一橋慶喜を擁立して、朝廷へ攘夷を訴えようとするため、京へ向け中山道西軍しますが、金沢藩のところにまで来たところで、頼みの綱であるはずの一橋慶喜が天狗党討伐の軍を引き連れて立ちふさがります。
天狗党は敦賀まで来たところで降伏し、捕縛されます。
天狗党の首領であった武田耕雲斎や藤田小四郎は簡単な取り調べを受けた後、敦賀で処刑(切腹はできず斬首)されたのち、首は塩漬けにされ、その首は水戸藩に送られ、水戸藩の城下を3日間引きずり回されされたそうです。
武田耕雲斎の辞世の句や最後の言葉
先に述べたように武田耕雲斎は水戸斉昭の腹心として仕えていました。
戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称されるほど優秀な人だったのです。
そんな武田耕雲斎は天狗党の首領としての最後を迎えます。
耕雲斎の辞世の句や最後の言葉はどんなものだったのでしょうか。
辞世の句とその意味
香りは君が 袖にうつらん
意訳:
梅の花は散ったとしても
その残り香はあなたの袖に移ることでしょう。
読んでそのとおりなので、辞世の句の理解はできますが、武田耕雲斎の気持ちを解説してみたと思います。
天狗党の首領として天狗党を率いてことを起こしたが、その思いが叶うことはない。
私意志は遺り、後世の君にうつることだろう。
天狗党を挙兵した藤田小四郎に「ことを起こすには時期尚早だ」といって説得するが、反対に藤田小四郎から天狗党の首領として天狗党を率いてほしいと熱意に根負けして天狗党を率いた武田耕雲斎。
略奪や放火などをする悪者集団だった天狗党が、武田耕雲斎が首領になってからは統制がとれ、本来の目的である尊皇攘夷を果たすために行動するようになりました。
そして、加賀藩の敦賀にてその思いは一橋慶喜によって絶たれます。
この辞世の句はもしかしたら一橋慶喜を思っての句だったのかもしれません。
最後の言葉とその意味
天狗党は水戸藩を離れ、中山道を通り、京にいる一橋慶喜に嘆願するために西行行軍をします。
金沢藩まで来たところで、思わぬ相手が立ちはだかります。
その相手とは、頼みの綱と思っていた一橋慶喜です。
一橋慶喜は天狗党討伐の総大将として琵琶湖の北側の海津まで来ており、「天狗党は賊徒である」とまで言ってました。
結局、天狗党は頼みの綱であった一橋慶喜に見限られ、降伏します。
天狗党の首領であった武田耕雲斎は何度か書状を書いてます。
1通目は水戸藩の当時の現状と、挙兵したことに対する理由が書いてあったために、一橋慶喜は「降伏の内容になっていない」と受理しませんでした。
そして、武田耕雲斎の最後の書状には下記のような内容が記載されおり、一切の弁明がないものとなっています。
一同、皆、深く反省して、降伏しますので、どのようにでも処置なさってください。
この書状は、武田耕雲斎が本当に書いたのではなく、一橋慶喜の御用人が下書きしたものをただ書き写しただけとの噂もあります。
ただ、書状を何度か書く上で、「どうか心情を汲み取ってください」などを書け、一橋慶喜に伝えることができたことが救いだったのかもしれません。
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まとめ
水戸三田の一人であった武田耕雲斎は優秀で、水戸斉昭を支え、そしてその斉昭の教えの攘夷を最後までに貫こうとした水戸藩士でした。
最後は武田耕雲斎が考えていたものとは違う攘夷活動だったので、無念であったことでしょう。
ただ、辞世の句で謳っているように武田耕雲斎が思い描いていた攘夷の意志は消えないと分かっていたことでしょう。
天狗党がしっかりしており、武田耕雲斎が生きていれば一橋慶喜に兵を送ることができ、違う歴史になっていたことでしょう。
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