幕末の武士であり、明治時代には酪農家、村長として活躍した「須永虎之助」。
渋沢栄一のいとこにあたる人物でもありますが、いまいち名前をきいてもピンと来ないという方も多いのではないでしょうか。
今回の記事では、須永虎之助の生い立ちや経歴を解説するとともに、渋沢栄一との関係、エピソードについてもご紹介します。
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目次
須永虎之助(須永伝蔵)の生い立ちや経歴
須永虎之助 (1843年~1904年)
主君:徳川慶喜
親族:渋沢栄一(従兄)
武士であり後に酪農家となる。仙石原村の村長を務める。
1843年、上野国新田郡成塚村の農家に生まれた虎之助。
7才の時に父を、14才の時に祖父を失ったのちは、母方の叔父であり渋沢栄一の父である渋沢市郎右衛門から剣術を学びました。
尊王攘夷思想を持った虎之助は、1863年に渋沢栄一や喜作らとともに横浜外国人居留地の焼き討ち計画に参加しますが、制止され不発に終わりました。
1864年には栄一と喜作が一橋家に仕えるようになると、虎之助も一橋家に入り大砲方となります。
その後は栄一とともに募兵のために各地を周りました。
1867年、王政復古となった際は本多敏三郎らとともに上京しようと計画しますが、老中・立花種恭の制止によって集議場(議会)の設立を建言。
旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸城に戻った慶喜が蟄居すると、立花種恭と前橋藩主である松平直克に掛け合い、朝廷へ恭順謝罪し慶喜を支えました。
やがて新政府軍が江戸に迫ると旧幕府軍を立て直すため、渋沢喜作や天野八郎らと彰義隊を結成して幹部となりました。
維新後は酪農に従事し、1891年には仙石原村村議会議員に就任。
晩年は仙石原の水不足を原因に芦ノ湖水利をめぐって静岡側と裁判沙汰になり、重禁固一月と罰金2円の有罪判決を受けます。
復帰後は仙石原村村長に就任し、争っていた静岡側とも和解し分水設備を整備しようと尽力しましたが61才で亡くなりました。
1843年 上野国新田郡成塚村の農家に生まれる
1864年 一橋家に仕える
1867年 彰義隊を結成し幹事となる
1880年 耕牧舎の責任者となる
1891年 仙石原村村議会議員に就任
1902年 仙石原村村長に就任
渋沢栄一との関係
渋沢栄一は日本に帰国後、銀行や製紙、化学など様々な事業を手掛けましたが開墾や毛布の製造などにも手を広げようと考えていました。
そこで現地を調査した結果、仙石原を開拓することに決め約700ヘクタールの牧場「耕牧舎」を開設しました。
狩猟を終えた耕牧社の人々(明治35年11月21日/出典:箱根温泉供給株式会社)
出典:箱根ナビ https://www.hakonenavi.jp/feature/15700
そこで現地責任者となったのが、いとこである虎之助だったのです。
日本で初めてとなる乳牛牧場「耕牧場」では、最盛期には牛200頭や馬80頭を放牧して当時では珍しい牛乳やバター、牛肉などを販売したり東京に出荷していました。
また、栄一の出資した聯成社や紅茶伝周所で紅茶製造についても学びました。
幕末から行動を共にしていた二人ですが、その関係は晩年まで続きます。
仙石原の水不足を原因に、芦ノ湖水利をめぐって静岡側と裁判沙汰になった際は有罪判決を受け、禁固と賠償を行った虎之助。
その後村長になりましたが、静岡側との和解は出来ていませんでした。
そこで仲介役を買ったのが栄一らだったのです。
そのおかげで水利の都合を条件に静岡との和解が成立しました。
和解の背景には栄一がいたのですね。
須永虎之助(須永伝蔵)の逸話・エピソード
耕牧舎の運営を任され責任者となった虎之助ですが、ここでの酪農はかなり難儀なものだったようです。
かなりの苦労を重ねたのにも関わらず十分な成果を得ることが出来ず、牛乳販売店を何か所か持ったものの、虎之助が亡くなったあとは事業をたたんで植林しているだけだったそうです。
しかし、この仙石原の開拓の功績が与えた影響は大きく、今もなお仙石原のゴルフ場には、昭和6年に建てられた須永伝蔵記念碑が残っています。
須永伝蔵記念碑
出典:タウンニュース https://www.townnews.co.jp/0609/2019/04/19/478523.html
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まとめ
幕末は一橋家に仕え、維新後は酪農を手掛けその後村長として活躍した須永虎之助。
幼いうちに父と祖父を失ってからは、渋沢栄一が兄のような存在だったのではないでしょうか。
栄一の功績が世の中では目立ちがちですが、虎之助のように支えながら共に戦ってきた人がいるからこその功績なのですね。
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