日本で初めての内閣総理大臣「伊藤博文」。
日本のトップに上り詰めた彼はいったいどんな生い立ちを持つ人物なのでしょうか。
また、長州ファイブとしてイギリスに留学した経験を持つ博文。
英語の実力はどのくらいのものだったのでしょうか。
この記事では、博文の生い立ちや英語の実力について解説するとともに、趣味や嗜好などもあわせてご紹介していきます。
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目次
伊藤博文の生い立ち
出典:Wikipedia
1841年に山口県の百姓・林十蔵の長男として生まれた博文。
博文が5才の時、家計が破産し父が萩に単身赴任することになります。
一時は母とともに母の実家で暮らしますが、8才の時父から呼ばれ萩に移住しました。
しかし家は貧しく、幼いころから苦労したようです。
博文が12才になるころから父が長州藩の水井武兵衛の養子になります。
その後武兵衛が足軽だった伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と改名したため、博文の父・十蔵と博文も足軽となりました。
武士となったものの、身分が低かった博文は藩校に入ることすらできませんでした。
しかし、吉田松陰の松下村塾には入門することが出来ました。
ただし、身分が低かったため塾の敷居をまたぐことができず外で立ったままの聴講でした。
やがて日本のトップに上り詰める伊藤博文も、若いころは自身の身分によって苦い思いをしていたのですね。
伊藤博文の英語力はどのくらい
博文が総理大臣になれたのは、英語が出来たからとする説もあるんだそう。
いつから博文が英語を勉強し始めたかというと、長州藩士だった頃の話。
長崎の長州藩邸に住み込みをして英語の勉強を行っていたそうです。
当時博文は、習った英語を使おうと、長崎市街を英語の本を読みながら歩き、外国人を見つけると下手な英語でどんどん話しかけていました。
しかしそのコミュニケーション能力のおかげでどんどん英語を使う機会を増やしたので、みるみる進歩していったんだそう。
そして1863年、長州ファイブの一員としてイギリスに留学することになります。
ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドンではすべての授業を英語で聴講し、教授の家にホームステイするという経験をしました。
英語力をつけた博文はイギリス留学中に、高杉晋作の通訳も務めました。
1871年には、岩倉使節団の欧米派遣に副使として随行し、アメリカ・サンフランシスコで英語でスピーチを行いました。
その内容は日本の国旗、日の丸について語ったことから「日の丸演説」と呼ばれています。
イギリスの公使館のフランシス・アダムスは博文の英語を「流暢だった」と評価していましたし、ワシントンの日本代表部職員だったチャールズ・ランマンは「はっきりした声で述べたので、聴衆は言わんとすることをよく理解できた」と語っています。
そのほかにも博文はアメリカ人と長年に渡って文通をしたり、イギリス留学から帰国しても洋書や英字新聞などを読んで英語力をのばし続けました。
英語を母国語とする人たちからの評価も高いことから、博文の英語力はかなりのものだったと推測できますね。
伊藤博文の趣味や嗜好
唯一の趣味は女遊び
伊藤博文は自ら「私の唯一の趣味は女遊び」だと公言しているぐらい女性が大好きだったそう。
衣食住に興味をもたず、いい家に住みたいだとか、高級なものを食べたいという願望もなく、「ただ公務も予かに芸妓を相手にするのが何よりの楽しみ」なんだとか。
博文の女好きは当時から非常に有名で、女性が掃いて捨てるほどいたことから「ほうき」というあだ名もついていたほどです。
40度の高熱にうなされている時ですら両側に二人の芸者をはべらせていたというから驚きです。
そんな博文の様子を見て、明治天皇は「少し女遊びを控えてはどうか」と注意したそうです。
葉巻を嗜んでいた
博文は葉巻をよく嗜んでいたそうです。
政治家の関直彦が著書「七十七年の回顧」で下記のように語っています。
「憲法発布後その自著の憲法訳義一冊を自著して贈られたれば、
その御礼に何がなと思いつつ葉巻が嗜好と気付きたれば、横浜に出向き、洋館の煙草屋にて一本一円ばかりの葉巻(専売前ゆえ、今日の二円のものより遥かに上等のもの)を二箱(五十本)を贈呈せり。
その後十日ばかりを経て、再び伺候せしに、公は御機嫌にて、『関、貴公もシガーが好きらしいが、良い葉巻を一本分けてやろう、喫んで見よ』とて一本を割愛せらる。
見れば先日余より贈呈したるものなるが、公は之を忘れられて、自慢せられて余に分かたれしものなりき。
頭にはただ国家あるのみ、誰から何を贈られしか、そんな小事は気にも止めず、とんと忘却せらるるも誠に無理ならぬことなり。
余としては進呈せしものが、公の意に叶いしを知り、大いに満足であり」
簡単に解説すると、関直彦が博文にかなり上等の葉巻を贈呈し、十日程たって博文に会いに行ったところ、とても機嫌よく「君も葉巻が好きらしいが、良い葉巻を一本あげるから嗜んでごらん」と渡されます。
よく見ると関が贈呈したものでしたが、博文はそのことを忘れてもらった本人に自慢していたようです。
博文は葉巻が好きで、いつもは50銭程度のものをいつもふかしていたそうですが、当時で2円(現代でいうと4万円程度)の上等なものを贈呈されて、かなり気に入ったようです。
当時頭の中は国のことばかりだった博文は、どこに誰にもらったものなのかもわからず、特に気に入ったものだったから関に勧めたのでしょうね。
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まとめ
日本初の内閣総理大臣で、明治時代に4度にも渡って総理大臣を務めた伊藤博文。
名家に生まれ大切に育てられたかと思いきや、若いころは身分の低さによって苦い思いをしていました。
そんななかで反骨精神も生まれたのかもしれません。
英語を学び、持ち前のコミュニケーション能力で日本のトップまで上り詰めました。
生まれながらに手元に配られたカードは選べません。
自分の手持ちのカードで勝負しなければならないのです。
いいカードばかりもった人、恵まれなかった人、さまざまあるとは思いますが、自分の持った良さや長所を活かすことで道は開けるのかもしれません。
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