幕末の幕臣であり、明治初期には官僚として活躍した「杉浦愛蔵(杉浦譲)」。
日本郵便事業の最初の実施者として知られる人物でもありますが、なかなかスポットが当たらなかった人物でもあるため、どういった人物なのか詳しくはわからないという方も多いのではないでしょうか。
この記事では杉浦愛蔵の生い立ちや経歴、そして渋沢栄一との関係とエピソードについてもご紹介します。
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目次
杉浦愛蔵(譲)の生い立ち・経歴
杉浦愛蔵 出典:Wikipedia
愛蔵は1835年、代々甲府勤番士を務める家、杉浦七郎右衛門の長男として生まれました。
のちに徽典館という学問所で学び、頭の良かった愛蔵は19才という若さで助教授になりました。
この徽典館は現在の山梨大学の前身にあたりますね。
1862年、江戸に派遣されてからは外国奉行支配書物役を務め、調役にも昇進しました。
そして翌年の1863年には幕府の外交使節の一員としてフランスに渡ります。
愛蔵は江戸とパリの往復を日記につけており、そのなかでも旅路に訪れたエジプトでの体験が印象に残っているようです。
ピラミッドやスフィンクス、ヒエログリフなどを見てとても驚き、感慨深かったことを記しています。
続いて、1867年にもパリ万国博覧会に派遣される徳川昭武と共に、二度目となるフランスの渡航が決まります。
スフィンクス前で集合写真を撮る池田使節団 出典:国立国会図書館憲政資料室
帰国後は外国奉行支配組頭となるなど主に外交官僚として活躍しました。
明治維新後は、静岡藩に蟄居しましたが郷純造らの推挙で民部省改正掛に入ります。
愛蔵のように、外交交渉や欧米の知識に長けている人物が必要だろうとのことだったようです。
民部省改正掛は渋沢栄一が立ち上げた部門ですね。
改正掛・・・政策立案を研究作成する部署
愛蔵は前島密とともに郵便制度の確立に務め、制度の統一や郵便局の設置、郵便切手の製造などを行いました。
他にも東京日日新聞や富岡製糸場の創設にも携わるなど、日本の近代化に尽力しました。
思想としては早くから四民平等や解放令、地租改正の必要性をうたっていました。
現代では身分差別など考えられませんが、たった150年ほど前でも明確な身分による差別があったと思うと、やはり時代を感じますね。
その中でも愛蔵はそういった身分による差別は廃止すべきだと考えていました。
そののち、大蔵省・太政官正院・内務省を経験し地理局長に昇任。
地租改正のため測量に奔走中、肺病で倒れて43才で亡くなりました。
渋沢栄一との関係やエピソード
さて、新一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一ですが、愛蔵は栄一とどのような関係性だったのでしょうか。
史実やエピソードとともにご紹介していきます。
1866年 幕臣の渋沢栄一 出典:Wikipedia
明るい二人はすぐに打ち解けた
1867年、徳川昭武がパリ万博に行くことが決まると、フランス渡航経験がある愛蔵が選ばれました。
愛蔵は明るく、人見知りしない性格だったこともあり、同じく明るい栄一とは顔合わせで意気投合し良い話し相手になったと言います。
パリ万博で出品しましたが、幕府は日本の代表ではないと新聞で報じられたため幕府の信用も威信も失い、フランスからの借款が出来なくなってしまいました。
滞在費用をおさえるため、愛蔵と栄一らはホテルからアパートへ移り住みます。
歳も近く共同生活を送った二人の間には友情が結ばれていました。
先に日本に帰国することになった愛蔵は、栄一から栄一の家族への手紙を託されます。
帰国後も愛蔵と栄一は家族ぐるみの付き合いをしていたそうです。
1871年には1867年の西洋体験、記録などをもとにした「航西日記」を栄一と共著で発行しています。
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まとめ
二度の渡欧経験とコミュニケーション能力から外交を担っていた杉浦愛蔵。
日本の郵便事業の創始者であり、東京日日新聞や富岡製糸場の創設に携わるなど、明治の近代化にかなり尽力した人物です。
明るく朗らかな性格で渋沢栄一とも良い友情関係を築いていました。
実力も人望もあった愛蔵ですが、スポットライトを浴びることが無かった人物でもあります。
大河ドラマ「青天を衝け」では志尊淳さんが愛蔵を演じていますが、これを機に杉浦愛蔵の名前が知られるきっかけとなるとうれしいですね。
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