江戸の幕末期、ペリーの黒船来航時や、ロシア使節のプチャーチンとの交渉時に、一歩も譲らずに粘り強い交渉を行ない、常に全力で命がけで日本の政治を遂行していった川路聖謨。
生まれの身分は低かったにも関わらず、自ら努力し続ける精神と献身的な姿勢で、国の政治に情熱的に立ち向かっていった政治家として、今でも人気のある歴史上の人物として名を馳せています。
最終的に川路聖謨はピストルで自害してしまいましたが、彼が生きていれば、明治時代も違ったご時世になったのではないかと言わるくらい、川路聖謨が果たした役割は大きなものがありました。
今回は、そんな川路聖謨の生い立ちや経歴、そしてピストル自殺をする時に残した辞世の句を紹介させていただきます。
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目次
川路聖謨の生い立ちや経歴
出典:wikipedia
川路聖謨(通称・弥吉)は、1801年(享和元年)4月25日、幕府直轄領である豊後国の日田(現・大分県日田市)で、下級役人の内藤吉兵衛の次男として生まれます。日田は幕府の直轄領で、父は地方の下級武士でした。子ども思いだった父・吉兵衛は、江戸幕府御家人の株を買い、徳川家の家中の一員(最下級の武士)になります。
その後、出来の良かった弥吉は、12歳の時に幕府の小普請組・川路三左衛門の養子となります。
小普請組は、城や街の修繕を行なう幕府の下級職員でしたが、もともと剣の腕が立つ川路聖謨は頭角を現していき、18歳の若さで幕府の勘定奉行所の支配勘定役に抜擢されました。
この背景には、江戸の武家社会で学問と剣術が重視される中、川路聖謨の知性と剣術の実力の両方が認められ、文武両道を貫く姿勢が評価されたからだと言われています。
その後も、12代将軍・徳川家慶の時代に天保の改革で有名な老中・水野忠邦に重宝され、直参旗本に昇格。文政10年(1827年)寺社奉行吟味調役、天保6年(1835年)勘定吟味役、天保11年(1840年)佐渡奉行、天保12年(1841年)小普請奉行、天保14年(1843年)普請奉行と、ハイスピードで出世していきます。
しかし、水野忠邦が天保14年の政変で失脚してしまったため、川路聖謨も奈良奉行に左遷されてしまいます。
けれども、ここで屈しないのが川路聖謨の人としての強さであり魅力。奈良で不明とされていた神武天皇の御陵の場所を捜索し、橿原神宮の北側の地が神武天皇の御陵であることを発見します。
これを朝廷に献上した川路聖謨は、孝明天皇から喜ばれ、大坂町奉行に昇格します。そして、嘉永5年(1852年)9月に勘定奉行に昇進、幕府の要職に復帰しました。
その後、嘉永6年(1853年)には浦賀にペリーの黒船が来航します。語学に堪能だった川路聖謨は、ペリーとの交渉役の随行員となり、若年寄の本多忠徳に従い房総海岸を巡視します。
また、長崎にプチャーチンが来航した時も直接交渉役を任じられ、安政元年(1854年)に下田で談判。
日露和親条約に調印するなど大役を果たします。
しかし、開国派の老中・井伊直弼が大老に就任し、将軍継嗣問題で揺れる中、川路聖謨は一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)を擁立する一橋派に属していたため、井伊直弼に疎まれてしまいます。
そして、川路聖謨は左遷され、閑職に追いやられます。その後、中風を発して半身不随になった川路聖謨は、慶應4年(1868年)3月15日の朝、表六番町(現・千代田区六番町)の自宅で、妻が席を外した間に割腹。
拳銃で自らのこめかみを撃ち、自害します。なお、日本で初めてピストル自殺をしたのが川路聖謨とも言われています。享年68歳でした。
川路聖謨の辞世の句(最後の言葉)
自害する直前に川路聖謨は、辞世の句を残しています。
天津神(あまつかみ)に 背くもよかり 蕨(わらび)つみ 飢にし人の 昔思へは
これを現代語に訳すのなら、
といった所でしょうか。
不運な人生でありながら、常に自らが信じる道を貫き通し、自ら責任を取りながら、幕末の日本を変えていった男・川路聖謨。彼の人生の覚悟を表した内容で、とても熱い言葉であることが感じられるでしょう。
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まとめ
昨今の日本の政治を司る官僚や政治家とは比べ物にならないくらい、自ら命がけで責任を取り、幕末の動乱下の日本をリードし混乱を乗り越えてきた、命がけの政治家・川路聖謨。
現代の政治家だけでなく、今の混乱の時代に生きるわれわれ日本人も、彼の生き様に学ぶ所は多くあるかもしれません。
ピストルで自害はしないとしても、それくらいの責任や覚悟をもって日々を生きているか。
川路聖謨がわれわれに訴えかけてくることを胸に刻んで、日々を生きていきたいものです。
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