武士であり、軍人でもあり政治家としても活躍した「山縣有朋」。
下級武士のもとな生まれ、軍事・政治のトップまでのぼりつめた有朋は、いったいどんな人物で何を成し遂げたのでしょうか。
この記事では、経歴や業績を解説するとともに、どのような性格の持ち主だったのかについてもご紹介します。
あわせて名言や人物像に迫るエピソードもご紹介するので、そちらもぜひご覧ください。
目次
山縣有朋の経歴や業績
出典:Wikipedia
山縣有朋の経歴
経歴について、簡単に年表でご紹介します。
1838年 長州藩の下級武士 山縣有稔の次男として生まれる
1858年 吉田松陰の松下村塾に入塾
1863年 奇兵隊軍艦の司令を務める
1866年 第二次長州征討にて幕府と戦う
この戦いで事実上幕府に勝利する
1869年 渡欧し各国の軍事制度を視察
徴兵制を日本に取り入れた
1873年 陸軍卿に就任
1889年 第9代内閣総理大臣に就任
日本初の帝国会議に参加
1898年 第2次山縣内閣発足
参謀総長、枢密院議長なども務めた
山縣有朋の業績
日本陸軍の礎を築き上げた
ヨーロッパへ渡った有朋は、近代軍政を学び日本の軍政改革を進めます。
日本の単純すぎる武士という戦闘集団を、近代的な戦闘能力の高い組織に造り上げたのです。
具体的には天皇直轄の参謀本部の設置・統帥権の独立・徴兵制の実施を行いました。
日本の陸軍の礎を築いた有朋は、「日本陸軍の父」「軍閥生みの親」とも称されています。
地方自治の形成に尽力
有朋はドイツ人顧問であるモッセの助言を受けて、地方自治制を取り入れることとしました。
1888年には市制・町村制を公布し翌年には導入。
1890年には府県制・郡制を制定しました。
これらによって、官僚統制のもとに地方の有力者を取り込む形での地方自治制度が確立されました。
しかし現在の地方自治とはまた違い、地方に自治を任せるやり方というよりも中央政府が直接的に実施するような形での制度でした。
山縣有朋の性格
面倒見が良かった
家庭環境にあまり恵まれなかった有朋は「狷介」(頑ななこと)と言われていたようですが、実際は面倒見が良いという一面も持ち合わせていたようです。
自分を頼ってきた相手を見捨てず、一度世話をした相手に対しては死ぬまで面倒を見るという情に厚い人物でした。
一度見込んだ人物は積極的に陸軍や内務省などの重要なポストに就かせていました。
実際、旧陸軍は有朋の意向もあって、重要なポストに就いている人物が長州藩出身者ばかりだったこともあり、有朋の権力基盤となりました。
政界にも有朋の権勢の影響は大きく、陸軍から引き立てた長州出身の桂太郎が総理大臣に就任。
長い間大きな権力と影響力を持ち続けました。
しかしだんだんと「身内びいき」とする声も大きくなり、大正期には護憲運動などで激しく批判されてしまうのでした。
名言や逸話
出典:Wikipedia
山縣有朋の名言①
「わしは一介の武弁(軍人)である」
これは有朋の口癖だったようで、国政に深く関与するようになってからも常に口にしていた言葉でした。
政治においても、軍事力の強化に尽力するなど、軍人としての知識を活かしながら政務を行っていました。
首相になっても、自分は軍人であるというプライドを持ち続けていたのでしょう。
山縣有朋の名言②
「憲政は欧米人の特有にあらず
わが憲政の前途多望なり」
近代的な憲法に基づいて行われる政治が欧米で取り入れられていましたが、日本は一歩遅れを取っていました。
そんな中でも有朋は、欧米だけの政治と考えず、日本も新たな政策や制度を取り入れていこうと考えていました。
固定概念にとらわれず、今は発展途上でもこれからどうにでも変化していけるというメッセージを感じます。
山縣有朋の逸話
1877年に薩摩藩と政府による西南戦争が勃発した時のこと。
有朋は戊辰戦争で共に戦った西郷隆盛と敵対関係になってしまいました。
出典:Wikipedia
戦いは非常に激しく、むごいものでした。
戦場には無残な遺体損壊が折り重なっていたんだとか。
そんな中、城山まで西郷隆盛を追い詰め、有朋は一通の手紙を西郷宛てに送ります。
「この挙兵はあなたの意志では無いことはわかっている。
両軍ともに死者は多く、これ以上身内同士で戦ってもむなしいだけだ。
そちらは犠牲が多く、もう逆転は望めない。
あなたが今決断すれば、これ以上の犠牲を増やさずに済むだろう。」
という、西郷に降伏し自決するよう勧める内容でした。
盟友である西郷の気持ちはわかっていて、きっと有朋もこのような形で戦うことは不本意だったことでしょう。
しかし西郷から返事が来ることは無く、政府軍は城山への総攻撃を開始。
西郷が自決し西南戦争は終わりを迎えました。
遺体を検分した有朋は西郷の死に涙を流し、悼んだそうです。
まとめ
下級武士の家庭に生まれながら、軍人・政治家として活躍し華麗な経歴を持つ山縣有朋。
さまざまな要職に就き、業績を残してきた彼ですが、その葬儀は会場がガラガラというほど政治家や国民達には愛されなかったようです。
しかし最近では、その評価を見直す動きも出てきています。
軍人として、政治家として日本の近代軍制を造り上げた有朋は今以上に評価されるべき人物なのではないでしょうか。
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